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ぷろふぃーる
 ・唯々、父に感謝
 ・闇の中の少女時代
 ・父が育てた子
 ・父とのエピソード
 ・結婚そして…離婚
 ・自信をくれた仕事と仲間
 ・Macで遊ぶ

  子ども虐待防止「オレンジリボン運動」

Macが一番
 ・初心者に優しいMac
 ・Appleのスゴいところ
 ・Macで上達

休憩室
 ・欲しい物…何でも作っちゃう

 WhiteSue は面白い! めげないし、つまづいても…必ず起き上がってきます。そんなわたしを面白い!と自分自身で真面目にそう思います。
 『2010年庚の寅』にて還暦を迎えました。パニック障害で一時期は凹み、先の見えない時間を沢山過ごし、まだ完治をした訳ではありませんが、どこかに気力を保持している元気な?婆ちゃんです。まだまだ元気が戻らないわたしの現状を、かったるく思う子供達からは、厳しい言葉で叱咤されて、優しさに甘えちゃいけないんだと言い聞かせる日々が続き、動悸と闘っていますが、日本の国だって空白の20年があるんだもの、わたしの人生にも休止の10年くらいは許してあげようよ!…と自分に言い聞かし、緩やかに『わたしらしさ』を取り戻そうと自助努力を続けています。
 或るときは男性社会で対等に評価される環境を得て現場監督をこなし、今なお建築業界の仲間をいっぱい持っています。その経験から『ハーフビルドで家を建てましょう』と提唱し、建築界の革命児たる事業展開を始めました。昔の仲間達と一緒にもう一度仕事をするための計画です。
 趣味はパッチワークやアップリケ、料理など意外だと思われる様な…女性的な事が多く、その針しごとの趣味を生かした『WhiteSue's Babyshop 』としてマイ・ブランドを立ち上げる事を夢に抱き、準備中。世界にたった一つのベビー服が届いたら素敵でしょう〜♪♪___考えただけでワクワクしてきます。
 後は…パソコンが大好きで、一日中作業(ン?…遊び!)触れていても疲れを覚えません。1995年から使い始めましたから…色んな事が判って来て、データベースの構築など…一番面白い時期に差掛かっているのかもしれません。
 そして基本的に自然が大好きで植物観察に星空観察、虫や野鳥、その他小動物(ヤモリやカエル)も遊びの対象にして観察します。野の草花の名前を確認するのに…葉を噛んでみて判断するので、子供達に叱られます。最近は、二男のお嫁ちゃんがきっかけとなったデジカメで、自然観察に拍車がかかって活気づいています。何となく気力が無くてヒマな時は読書にいそしみ、時間を持て余す事はありません。いまは一番のんびりした時間を過ごしています。
 この半世紀に様々な体験をしました。どうでも良い他人の話しだけど…わたしを知る多くの人が『なぜ、あいつはあんなに強いんだ?』と疑問を持つ方が相当多いのではないかと思っています。それでも…弁護士から受けた緊迫したストレスの中で長期間を過ごして『パニック障害』と言う表現できないような恐怖を伴う病気を発症させたのです。発作時には『もう死ぬのかな』と思いました。心臓が飛び出てきそうな激しい動悸、ハァ、ハァ、ハァハァと息を吐くばかりで、息が吸えない! 苦しい! 死ぬのが判っているなら、やっておきたい事が沢山ある! 激しい発作が起きるたびに、独りでそんな事を考えていました。
 小さな会社ですが個人事業者だったので、昼間は緊張していたからか、発作は夜に頻繁に起こりました。日赤の主治医の先生に『しばらく休養しなさい』と言われて、事業を廃業し、仕事から退きました。元気が自慢のわたしが Why?..と、一時期はかなり凹んでしまいました。人間一人ひとりは強そうで居て…とても弱いものだと云う事を思い知りました。何よりもまず心身共に健やかに過ごす事が、様々な行動を起こす時にも、様々に想いを巡らす時にも有効且つ健全な動作環境を提供してくれることをも、再認識した次第です。パニック障害はとても厄介な病気です。投薬で小康状態を保っていますが、過度なハプニングに遭うと、また再発したように動機や息切れが激しくなります。その病気とつきあいながら、2名の弁護士を相手に、債務不履行事件の再審を請求して本人訴訟で闘い、弁護士過誤を直視しなかった裁判官の不当判決を巡り、本人訴訟で国家賠償請求を争いました。わたしのプライドを掛けた闘いなのですが、このめげない性格も思春期の家庭教育で培われたものだと感じています。
 自分が発したものには必ず自己責任が付する事を父からしっかりと教育を受けたわたしは、精神的な元気要素を一杯貰って育ちました。心身ともに、元気が一番! その想いが生来の正義感に拍車をかけて、いつも心のどこかで社会正義の実現の為に寄与したいと思い、『人間万事、塞翁が馬』まだまだわたしは終わらないぞぉ〜と、揺らぎ無い信念の中で…緩やかに…緩やかに人生を歩みます。

 まず、わたしは京都生まれの京都育ちです。父の名前は Shinji 。母さんは…ん〜と、ごめんなさい、母さんの記憶は全くないのです。母さんは幼いわたしをおいて出て行きました。夕暮れの暗闇の中に取り残された1歳半のわたしは、電気を点ける事も出来ず…大声で泣いていたそうです。1歳半でお姉ちゃんの髪を引っ張り、泣かせて…おもちゃを取るくらいやんちゃな性格で、元気一杯だったわたしが、新しい母ちゃんがきてからすっかりおとなしく無口になりました。
 幼い頃の思い出はいっぱいあります。わたしには、2歳前後の記憶が断片的に残っています。歩き出した頃に、母さんとはぐれて探しまわる夢を良く見ました。私の傍にいる母が、養母だとは認識できないままに、遠い記憶が残っていたのでしょうね。楽しい思い出よりも,叱られたり、怒鳴られたりしたつらい事や、悲しい事の方が多い気がします。わたしは小学3年生の時、生誕地に立て替えられた大きな家に引っ越しました。
 でも嬉しかったのは束の間、おじいちゃんが性的虐待を始めたのです。おじいちゃんが死ぬまで…約1年間も続きました。わたしはおじいちゃんが大嫌いになりました。すると新しい母ちゃんが怒ります。それが習慣になって新しい母ちゃんが不機嫌になると、いつも幼いわたしを罵倒して当たり散らしました。何でもない事が。大事件になって叱るのです。
 家でいっぱい我慢を強いられたわたしは、『キィキィモンタ』とニックネームが付くほど、激しく騒いで、箒を振り回し、時には噛み付いたり…と学校で男の子と喧嘩をしてストレスを発散させました。毎日毎日、先生や友達を困らせるほど、問題児のように暴れ回ったことを記憶しています。なかでも天敵のように喧嘩をして過ごした荒川君には、ついこの間の同窓会で初めてごめんなさいを伝えました。

 幼いわたしはとても悲しい少女時代を過ごしたのかもしれません。雷雨の中で、土砂降りの雨に打たれながらいっぱい泣きました。屋上の庇に座って下の道路を見下ろしながら…『ここから落ちたら死ぬかな、死んでしまいたいな。』と、幾度も幾度も考えて庇に座っていました。でも悲しい事ばかりではありません、ふと気がつくとわたしの傍には父がいるのです。大人になってから思い出してみるとわたしが眠りにつけない時、困っている時や、悲しさで一杯いっぱいの時には、いつもわたしを見守っていてくれたように思います。
 おじいちゃん事件で悲しく沈んでいた小学三年生の頃には、一人で屋上にいると父がやって来て、祇園祭の鉾のお囃子を聴きながら星空が大好きな父と夜空を見て…夢中になって☆の話を聞き、『あっ、いま星が一つ消えた!』と云いながら、超新星の話しをして『宇宙は広いよ! 人生も同じだ。誰も気がついてくれなくても世界中の人がみんな一所懸命に頑張って生きてるんだ。わたしはどんな人生を歩むだろう。』などと、子供扱いせずに、哲学的に人生には夢や希望がいっぱいある事も教えられました。
 わたしが中学生になると父は『天声人語』を読んで,意見交換をするという課題を作り、父と共に過ごす時間をたっぷりと取ってくれました。父はわたしの考え方を絶対に否定しません。いつも『そうか、でも僕はこう思う。』と、父の意見を聞いて終わります。いつの間にか無口で泣き虫になったわたしに、自分の考え方を持つ事とその考えに自信を持つ事、そして発言に責任が生ずるという大切な事を教え、自信を持たせてくれました。
 他にもあります。模型飛行機や貝殻の笛を作り、割り箸でゴム鉄砲を作って一緒に遊びました。将棋や麻雀、花札を教えたのも父です。また、湯上がりに子供達が一列に並んで手足を出し…爪を切ってもらいながら,たくさんお話をしたり、クラシック音楽の好きな父に『家庭教師』と父から希望されて、楽譜の読み方や楽典を教えてあげたりもしました。父が逝った年には、心筋梗塞で入院する傍で不倫を描かれたドラマを見て、離婚時の父の話しを聞き出したり、鴨川沿いのアベックを夜間に双眼鏡で父と交互に覗いてはくすくす笑ったり、なんという親娘だろうと顰蹙を買いそうな愉快な時間も楽しみ、大人同士の会話の中で沢山の事を学び取りました。
 残念ながら…、父はわたしが22歳の時、わたしの結婚から17日後に亡くなりました。父にとって幼少期のわたしの変化が悩みの種だったのでしょうか、父の書棚には、毎年新聞社から送られる干支の置物のうち、寅の置物だけが飾られ残されていて…数年前に母親から譲り受けました。
 また、結婚式前日に手渡された『誕生祝いの控え』と題して4枚の半紙を紙縒りで綴じた手作りの目録には、神戸新聞社…壱阡円也、京都新聞社…壱阡円也、と続く中に、新しい母さんの旧姓が当時の事務員さん連名の祝い品目の中にあります。わたしは恵まれた環境の中で生まれた事が推測できて、『わたしが…、わたしは最初っからこの家にいた』という確証になり何よりも力強い支えとなる存在感の裏付けとして残っています。わたしの出生に戴いた22件のお祝いのうち、『同業者組合…壱百伍拾円』『東福寺中村様…玉子五個』というのがあって、1950年の物価が覗き込めて楽しくなります。懐かしく温かい父の墨字を見ていると、悲しかった母さんの言動や所作までが、父の愛した人だから…と全てを許せてしまい、早世した父が…喜怒哀楽の他に許しという慈愛に似た心までを人生訓として残してくれたように思います。
 わたしの幼少期はハプニングが一杯でしたが、温かい父に恵まれた事が最高の幸せでわたしの性格は、父の愛情によって形成されたのだと思っています。少し…変な奴ですが、みんなと同一でない事が大好きで、考えたり工夫を凝らして制作する事が大好きな子に育ちました。なぜか世界にたった一つ…にこだわります。人間の個性や心もやはり世界にたった一つの大切なものだと思うのです。自分の事だけでなく沢山の出会いで知合った多くの友人たちの個性を大切に考え、良き仲間に恵まれる特質も父から伝授されました。わたしも父のように優秀な親になれるかなと、大きな宿題を貰った気分です。
 幼い頃を思い出すといつも考えました。わたしは、なぜ小学生のあの時『死』を選ばなかったのだろう。父が悲しむと思ったのだろうか…父を悲しませたくなかったのだろうか…と。『なぜ?』の答えは覚えていません。
 子供が身体、精神ともに健全に育つには、誰でも良いから…その子をいっぱい愛してくれる人が、たった1人でも傍にいれば、きっとその子は救われるんだと確信し、今は死ななくてよかったと…生きてこそ体感できる温かい家族に恵まれた…幸せな現実に感謝をしています。

 わたしと父には面白いエピソードが一つあります。わたしは高校に入学した時にクラスの担任の先生から戸籍謄本を返されて、初めて中身を確認して…母親が本当の親でないと知りました。思春期のわたしは、母さんも大好きでいたので…とても大きなショックを受けました。わたしが幼い頃からヒステリックな母さんのターゲットになっていた事が沢山思い出されて、哀しく思いながらも…母さんのヒステリックに黙ってつき合っていました。
 短大に進学してすぐ、生母が喉頭癌で入院していると姉から電話が入りました。初めて聞く姉の声でした。わたしは、学校の帰りに友達に頼んで一緒に病院へ行きました。でも頭の中は此処で生母に逢う事を知れば母さんが悲しむだろうなぁと…、家にいる母さんのことばかり考えて、生母には会わず看護婦さんの詰め所に花を預けて帰りました。その夜、再度姉から電話があって、病院まで行った事が母さんの知る所となりました。母さんのヒステリックの再発です。最初はおとなしく聞いていたわたしは、母さんの言い分に納得がいかず、ついに反論してしまいました。逢わずに帰ったわたしの気持ちを母さんに伝えたかったのです。母さんのヒステリックは最高潮で話しになりませんでした。
 その日から、母さんは事あるごとにわたしにぶつかって来るようになりました。女性とは思えない様な汚い言葉も吐き出します。ある日わたしの限界を超えて、その都度母さんに反発するようになりました。中学時代に天声人語で父に鍛えられた弁論で、母さんを言い負かしてしまいます。『私は赤ちゃんだったんだよ。大人の貴方が決定した事でしょう。自分の行動に責任持ちなさいよ。私を育てなきゃならない環境を作ったのは、大人であった貴方達でしょ!』きっと、母さんはギャフンと云ったのでしょう。父に助けを求めました。きっとわたしの名前を連打して、あの子が…あの子が…手に負えないと。

 ある日父に呼ばれて父の部屋に行きました。父は改まった顔をして『おまえが云いたい事はよく解る。でも、母さんは女やから弱いんや…母さんを攻めないでやってほしい。云いたい事は全部…父さんに云ってこい』と云いました。『うん、判った』父との約束です。わたしはその日から母さんに反発しなくなりました。母さんも少し遠慮してわたしに悪態をつく事が少し減りました。しかし生来の母さんの性格は直りません。苛つくと押さえられず、わたしに理不尽な言葉を振りかけてきます。そのときは必ず父にぶつかって行きました。わたしの短大時代は、父に意見する日が多くなりました。
 わたしは幼い頃から理数系の教科が好きで弟が科学と学習の雑誌を読む度に聞かれ教えてあげるうち、その付録で実験したりして遊んでいました。高校の化学の先生に押印してもらって、薬品を買い弟の遊び相手として…それなりに楽しく過ごしていました。風呂蓋を新調したときに木の灰汁で湯が濁るため、消石灰で灰汁抜きをしたり…自分の知識と手持ちの薬品が役に立つ事も、ちょっとご自慢でした。
 ある時『お〜い!』という父の呼び声、お茶が欲しい合図にわたしがとんで行き、お茶を入れてあげると…父は飲まないのです。熱いお茶が好きな父に『冷めるよ』と声をかけると『おまえも一緒に飲まないか』と誘います。わたしは自分の湯のみを持って来てお茶を注ぎ、一口飲むと父も飲みだしました。幾度かそんな事が続き、『毒なんて入れないよ』と云うと、笑いながらふつうにお茶を飲むようになりました。
 わたしの言動は父を殺意に怯えさせる程、強烈だったのかもしれません。でも、その言論の重要性、思考力を鍛えたのは父自身なのです。
 早世した父との笑えない…でもちょっとユニークなエピソードです。

 わたしは短期大学で幼児教育を学び幼稚園教諭免許と保育士(保母資格)を有しています。しかしアルバイトを少ししただけで、就労はしていません。学校で学んだ幼児教育は、自分の子供に活用しよう…と考えていたわたしは、父が亡くなる直前の22歳で結婚しました。お相手は小学校の頃から大好きだった親戚のお兄ちゃん…だからわたしはとても幸せでした。素敵な子供達を3人育て、平凡な幸せの中で暮らしていました。
 結婚当初からわたしが希望して同居をしたお姑さんが認知症で大変になって、病院の院長先生から『赤ちゃん連れの介護は大変だから預かりましょう。今日は置いて帰りなさい。』と勧められても、臆する事なくわたしは自宅介護で世話をしました。現在のように介護保険やヘルパーさん、病院等のディサービスも充実していません。大変と言えば…本当に大変だったけれど、愛する人のお姑さんだよ、わたしが頑張らなくて誰が世話をするの…と、長男が小学生、長女が幼稚園〜小学生、第3子が2歳になるまでという条件の中で、重症になってからも約5年間の介護でした。
               _しかも、お姑さんは病人の意識なしですから(笑)_
 いつか『ほら、貴方はわたしと結婚して良かったでしょ!』という一言を彼に伝えるための、健気な愛の一念です。

 お姑さんを無事に見送り2年ほど経た時、わたしは交通事故を起こしました。相手車両が納車から1週間の新車で被害者から『新車を返せ』と要求され、損保会社から『8対2の過失であるから裁判を』と勧められる。被害者からの連日の電話で、わたしはどんどんやつれて拒食になり精神力に限界を感じて、180万円を我が家が負担する事で彼と話がまとまりました。わたしは早速銀行に行き、融資の話を取り決めてきました。その頃はわたしもパートに出て就労していたので、新築した家のローンと、他人の車のための借入れ返済を合わせても遣繰りできる経済状態でした。しかし裁判をすれば払わずに済むものを負担する訳ですから、わたしは彼に大きな感謝の気持ちを持ちながらも、家族だから今度は彼が守ってくれる…お姑さんの世話をしたわたしが甘えて良いんだ…と単純に事故解決を喜びました。彼にとって180万円の出費は大きな負担だったのでしょうか。お姑さんを在宅介護したわたしを蹴散らしたい程、彼にとっての180万円は甚大だったようです。わたしが何にも気づかない中で4ヶ月が過ぎて、突然、奇妙な形で炸裂してしまいました。「不倫のお相手である彼の事務員との事を誇張して褒め讃え、それに引き換えお前は…」と罵倒します。酔って帰っては様々な悪態をつき、勇気を持ってそれを注意した実の娘に他人行儀な言葉を返す程に、彼の心は荒んでいました。幼児期の様々な経験から金品より心を重視したいわたしと、思春期に家庭内で経済の破綻を経験した彼との価値観の差が歴然と現れたのです。単身赴任だと子供をおいて出てゆき財産分与と養育費にその家をあげると言い残して、月毎に引落される12万円の住宅ローンを含む、一切の生活費を貰えない…兵糧攻めのような…別居が始まりました。当然、わたしの事故による負担金180万円も支払い放棄です。
 住宅ローン、事故車の返済、光熱費、学費、生活費、我が家は一瞬で火の車になりました。自宅の売却を条件に…銀行から新たな融資を受け、昼は工務店でハウスメーカーの現場監督,夜はスナックでホステスという過剰な働きで…なんとか返済を遣繰りしました。その間、体調を崩して膵臓肥大と診断され即刻入院と勧告を受けながらも、今の家庭環境で子供を放置して入院は不可能ですと事情を話し、医師に相談をして通院治療です。完治まで長い期間を費やしました。そして2年を経過して、彼が『やっぱりやり直そう。俺は別居中に300万円を貯めた。これを元手に君の念願のベビーショップをやれば良い。』と、とても自慢げに貯金通帳を出すのです。彼の価値基準とわたしの価値基準の差が現れた瞬間でした。わたしは心の中で(それは私のお金だよ。あなたは家も家族も捨てて出て行き生活費も出さなかった。貴方の預金が出来た分、我が家の借入れが増えたんだ)と思いながら『現場監督は面白いから続けたい。仕事を持てと言ったのは貴方でしょう? なぜ? 今更、家で俺の世話だけをしてくれなんておかしいよ。』と申入れを蹴ったのです。すると彼は、通帳を足下に隠し『じゃ、これはなかった事にしよう。』と言いました。
 わたしは、とても悲しくなりました。わたしが選んだ結婚だ。これがわたしの大好きな人…。目の前の男性が一瞬にして小さく小さく見えて、結婚から十数年つい数年前まで大好きでいたはずの自分の愚かしさが悲しく、急速に熱が冷めてしまいました。わたしが選んだ男なのです。
 とても残念だけれど…わたしは離婚をバツイチではなく、『返品した』と表現しています。

 そもそも仕事を持てと勧めてくれたのは主人でした。そういう意味では社会進出の第一歩を作ってくれた彼に、一番感謝したいところです。お姑さんが亡くなったある日、「家にずっといる女性よりも社会に眼を向けて輝いてる女性が好きだ」と言い出したのです。始めは半日のパート社員で事務仕事をしました。小さな建設会社だったので、社長の動きや現場で働く男性の動きが手に取るようによく判ります。「俺は中卒だから」という社長はとても几帳面な部分を持ち、仕事が発生したら自分で地盤の測量をし、平面立面計画を作り、契約前の積算、業者の値段交渉などをきちんとして、細やかな明細項目を付けて見積もりをあげ顧客に提出します。建築の基本はこの事務員時代に学んだ気がします。4年を経て、このまま事務員を続けていて、自分の進化がない事に気付きました。そこで私は辞表を提出しました。わたしの事務仕事はコンピュータ入力だったため、なかなか新たな事務員さんが決まりませんでした。ようやく決まった方に、みっちり半年を掛けて引継をし、晴れて退職になった日に、社長から転職先を聴かれて「この会社で現場の仕事がしたい」と願い出て、配置転換を成功させました。その頃、我が家は離婚だの別居だのと大騒動でした。ドンドンやつれてガリガリになっていくわたしを心配した弟がサイパン旅行を提案してくれて、休暇届を出したのですが1週間の休暇が頂けず、退職する事になってしまいました。
 サイパンへ行けば真っ黒に日焼けして帰ってくる。遊び疲れた顔で面接してもダメだろうと思い、お盆休みの建設会社に強引に面接を申し込み、真っ黒でない…元気なわたしをアピールして次なる職場の確保に努めました。
 前の職場は5年かけて現場にも通じる人間と認められたから、今度は2年で現場に出てやろうと心に決めて、事務の仕事をしていました。人間の出会いとは不思議なものでその会社に入って1ヶ月余りでそのチャンスに出会いました。ある日の午後、常務から緊急の電話を受けました。新築されたばかりのマンションの現場見学会を土日にかけて開催するということで、各戸に表示するタイプ別のプレート4種の作成をしてくれという事でした。総務部には部長以下男性3名女性5名がいます。入社間もない私が受けた電話の内容を総務部長に伝えると「君が聞いた電話だから君が好きに作っていいよ」とおっしゃる。材料を揃えるに、月極支払いの業者を数件教えてもらい、自分のワープロを自宅まで取りに帰って、指示されたプレートを完成させました。常務の帰社を待ち手渡してから帰宅して…月曜日、朝から常務に呼ばれ社長室。内心ドキドキするわたしに「君のセンスには、現場の仕事においても巧く処理出来そうな素質がある。現場の担当をしてみないか?」と聞かれて、待ってましたとばかりに前の会社の離職の原因を話し、現場を希望して入社した事を伝えました。早速、次長直轄の部下として1件の現場を担当させていただき、現場の流れや処理のノウハウを学んで三井ホーム現場担当として常務に同行して京都支店にご挨拶に行きました。十社ほどのビルダーと電気設備、給排水設備、内装工事、外構工事、屋根工事、資材業者、三井ホーム工事部社員、月に1回集まる定期連絡会議には女性はただ一人。故に自ずと目立つ存在で、ラッキーな環境の中で三井ホームから2度も表彰されるほどに育てていただきました。

 離婚をすると女性は強くなるって…これは、本当です。わたしは離婚してからも暫くは現場監督を続けていました。男性と対等の仕事をしているという現実の緊張が、次の意欲を沸き上がらせてくれます。1995年3月、現場監督をやめ…それまでに培った人脈を大きなブレーンとして小さな事業を始めました。創業から二期目で売上げは倍増し、三期目にはさらに倍増させました。サラリーマンとは違い、資金繰りは大変ですが、事業をするというのはかなり面白いものです。事業を始めるにあたってパート社員を募集し税務署に青色申告の申請をし、労災保険の申請を済ませて準備をしました。事務所には青色申告が堪能と自称する事務員を唯一の正社員とし、わたしの知識欠如たる領域を担当するために給与を20万円に設定して雇用しました。
 起業から7ヶ月目、『青色申告なら任せて。その代わりお給料を弾んでね。』と言っていた事務員が、第一期の決算目前である10月末に彼女は退職しました。『なんで、この時期?』思いっきりハンマーで頭を殴られたような衝撃を受け『青色申告の経理が堪能だからお給料を弾んでね。』開業時の彼女の甘えた言葉が頭から離れませんでした。事業不安定期に払ったあの給与140万円は何だったんだろうと,悔しさを通り越して情けない思いに駆られ人の心は読めないもの…と、人を信頼する事の限界を感じてしまいました。
 わたしは決して人を信じない訳ではありません。今でも小学、中学時代の友達とたまに呑み、高校、短大時代の友達とは旅行に行ったり、高校時代に一度も授業を受けた事の無い先生に可愛がっていただき,先生のご自宅に3泊も旅行の様に泊まりにいったりもします。また、現場監督時代の仲間達は男性ばかりですがみんな良い友達です。いまでも時折『呑みにいこう』と誘ってくれて楽しく話し,美味しいお酒をいただき、とても良い関係が続いています。こうした仲間達の中での存在感が、新たな自信に繋がっている様に思います。

 さて…そうそう経理の話。事務員が辞めて少し人間不信になりながら次の人材を…と悩んだ時,机上のMac が『僕が居るじゃない。僕に任せろよ』と語りかけてきました。『そうだMac は裏切らないよ!』と素晴らしい閃きに湧き立ちデータベースソフトのファイルメーカー Pro. に、日々の工事と請求、パート社員の労働時間と給与、領収書データを片っ端から入力しました。他人に依存していた自分の愚鈍さをバネに、Mac との協働です。初めてのMac は LC630、良く働いてくれました。
 ファイルメーカーを使い、いつかきっと自社の経理ソフトを作ってやろうと取組み、3年を懸けて複式簿記の経理ソフトが完成しました。税務調査の時には、税務署の担当の方にも認知していただき自信を大きくしました。現在ファイルメーカー社のユーザー導入事例の中に、シェーンとして唯一の個人業者を紹介していただいています。わたしの愛用Macは事業をしていた性もあり、今のノートブックで8台目。事務員の給与より少しオーバーして投資しましたが、彼女の給与は10ヶ月、Macは13年間の総額ですから、能力といい、事業の貢献度といい、かなり安いお買い物です。
 Sue's Macは、すばらしい最高のおもちゃです。デジカメが活躍し、遊びながら考え作成したものが様々な場面で自己表現を可能にします。データベースの次はHP。試行錯誤を繰り返しながら、いま又、こうしてMacと遊んでいます。

 あっ、そうそうファイルメーカーをお使いのあなた!…わたくしは開発者用アドバンスを使っています。なかなか巧く構築の出来ないお悩みのファイルが有ればお作りしましょうか?? ロックをかけずに、アクセスや更なる変更が自由にできるようにしてお渡しいたしましょう。ご注文が有れば、サイトトップページのお問い合わせより、ご用命ください。